ガイド日誌

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2005年3月30日(水)

遊び人、Woo

きのう突然に、札幌に住む山仲間のAさんがガイドかっちゃんと一緒に遊びにきてくれた。

このAさんはテレマークスキー仲間なのだけど、登山からカヤック、モトクロスまで、野遊びなら何でもやるという、いわゆる“遊び人”だ。僕よりもいくつか年上でそろそろ髪にも白いものが混じってきているというのに、 あっちこっち、しょっちゅう怪我をしているらしい。すり傷が絶えないわんぱく小僧のような、実にやんちゃな中年だ。(スミマセン)

「俺もすごいと思うけど、Aさんにはかなわないッスよ」

あの勝気なかっちゃんまで脱帽している。

Aさん、もちろん女性にもモテる。面白いし、服も小物もセンスがいい。実に実に羨ましい。その割には浮いた話がなくって、こういうところも大変よろしい。

「いやあ、きょうヤマ行ったらさ、すごい風でね、で、降りてきて、山小屋さんとこ寄ったわけよ」

「もっと早くに来よう(見舞いに)と思ったんだけどね、でもさぁ、ほら、何しろ山にパウダーがあるから!」

あははは!脱帽。

さすがAさん、腹のなかまで真っ白だ。気分がいい。正しい遊び人はこうあるべきだ。よぅし、オレももっと遊ばなきゃ。

退院したらまず、新しいMTBを買うぞ〜。2万キロ走ってもガタがこないタフなやつを探すのだ。それからオールドタウン社のカヌーも修理して穴をふさぎ、BMWのオフロードバイクも車検を再取得して現役に復帰させよう。

今年の僕はリハビリと称して、遊んで遊んで、遊び倒すのだ。

うししし。


2005年3月28日(月)

パウダースノー十勝連峰

この週末の山はなんだかとても良かったらしい。

この時期の山は天気に恵まれることが多いものの、春を目前にして気温があがり、雪がグサグサに腐りやすくなってしまう。腐った雪が凍ってできたウエハースのようなモナカ雪は恐ろしい代物だし、腐った深雪も悲惨だ。滑っていて楽しくないし疲れるし、怪我もしやすい。緊張を緩めることができない。僕にとって春先は何となく憂鬱な季節だ。

しかしながら、この週末はこの時期にしてはかなり条件がよかったという。ここ2、3日は冬に戻ったような冬型の天気に覆われていたが、おかげでサラサラのドライな粉雪がたっぷり積もっていて、いわゆる「激パウ」だったらしい。

週末は入院中の病院から外泊許可をもらい自宅に帰った。ガイドの山小屋には元スタッフが遊びにきていて家の中はたいそう賑やかだった。その元スタッフから、たったいま滑ってきたホヤホヤの山の話をきいた。テレマークスキーのツアーに便乗参加していた彼女は夕方ショップに帰ってくるなり「楽しかった〜」と興奮気味に話す。話を聞きながら山の情景を頭に思い浮かべてみた。あああ、なんだか羨ましい・・・。

この時期に激パウに出会うには、曇りの日を選ぶといい。冬型のやや陰鬱な天気の日だ。冬型の天気に運ばれた乾いた粉雪も3月の日差しにさらされるとあっという間に重たい雪に変わってしまう。降雪直後の曇り空の日。この週末の土曜日がまさにそうだったのだ。

30センチのドライパウダー。轟々と巻き上がる雪煙、あとを引くような粉の航跡。あああ、たまらないだろうなあ!

あけて日曜日は悪天候で×。やはり土曜日がアタリだったのだろう。

パウダースノーの楽園、十勝連峰を目の前に控えているというのに僕は、週末はエアロバイク漕ぎで過ごした。距離数や時速や心拍数をみながら、黙々と自転車を漕ぐようにエアロバイクのペダルを漕ぐ。1時間も漕ぐと汗びっしょりになり、痛めた靭帯や骨折箇所も悲鳴を上げ始める。

正直いって、あまり、楽しくない。

日曜日の夜には入院先に戻る。妻も僕が家でゴロゴロしているより病院にいたほうが気楽らしい。治療ついでにしっかり“入院給付金”を稼いできなさいというわけだ。 仕方ないから今は治癒と機能回復に全力をあげることにしよう。


2005年3月24日(木)

ガイドかっちゃん、マスコミ取材を受ける

つい先日、3月22日付の「道新スポーツ」(北海道新聞社が発行するスポーツ新聞)に、「三段山テレマーク・山ボード」の記事が掲載された。ツアーを担当するガイドかっちゃんから前の週のツアーで取材を受けたのだと聞いていたけれど、こうして実際に掲載された記事をみていると、なんだかコソバユイかんじがしてくる。新聞の写真にはきっちり、かっちゃんの曲がったストックと滑っていく後ろ姿が写っている。面白い。

「旅パレット」という特集の吹上温泉白銀荘の紹介にくっついた、つい 見逃してしまいそうな、ささやかな記事だけど、しっかり者の妻はコンビニに走り新聞を買ってきた。記事を切り取り、これまで過去に受けてきた取材記事を保管しておくスクラップブックに きっちり綴じ込んだ。ガイドの山小屋としても久しぶりの、1年半ぶりの取材。

「おれんとこ、取材なんか慣れてるもんね」という平然とした顔をしていたいけれど、いやいやどうして、やっぱり嬉しいものは嬉しい。

好評かっちゃんツアーの評判がもたらした、うれしい取材申し込みだ。

今からずいぶん前になるけど僕個人も当時は珍しかったアウトドア会社という風変わりなベンチャー企業を立ちあげた人として97年あたりに北海道新聞の取材をうけ、デカデカ顔写真つきで朝刊に載ったことがあった。ただでさえ顔がデカい僕の顔写真はインパクトがありすぎた。戦慄の、恥ずかし写真だった。 いったい何を話したのかよく覚えていない。

かっちゃんは、小さいながらも「ガイドでっせ!」というカンジ、冬山ガイドの姿で写っている。ああ、おれもそんな写真だったらカッコよかったのにと思い、なんだか実に羨ましい。

ガイドはやっぱり外にいて、生き生きしているところがカッコイイのだ。

ところで、ガイドかっちゃんは来年からはプロスキーヤーを目指すつもりなのだという。○○選手権とか、有名な大会にも出るようになるかもしれない。そうしたら、

「あのかっちゃんはオレんとこにいたんだぜ〜」

とか言いながら自慢げに新聞記事のコピーなど見せびらかしたりできるかもしれない。

なんだか楽しみだ。


2005年3月23日(水)

魚のこえ

ついに雪解けが急ピッチではじまった。町の雪は目に見えて減り続けている。今朝はプラス気温だった。国道など、通行料の多い道路にはもう雪はない。気の早いドライバーのなかにはそろそろ夏タイヤに交換する人もあらわれるだろう。北海道の春はもうすぐそこだ。

雪解けのころ、山々を縫って走る渓流ではイワナやヤマメが活発に活動を開始する。冬の間は深みでじっとしていた彼らも、空腹であることを思い出したように今は食う気が満々だ。きっと水温があがったことを喜んでいるだろう。川の水はまだ手を切るばかりに冷たいが、彼らにとってはきっと快適なのだ。

この時期はなにしろよく釣れる。イワナ、ヤマメ、ニジマス、何でもよく釣れる。雪がとけ、川が割れ(積雪の間が割れ奔流が顔を出すこと)、流れの脇にヤチブキの黄金色の花が咲くころが川はいちばん美しく、しかも魚がよく釣れる。

この頃になると、僕には魚のこえが聞こえるような気がする。

小さな流れ込みの裏の反流する流れなど、釣れそうなポイントを見つけるたび、そこにイワナやヤマメがいて、ボソボソとなにやら喋っているような気がする。気配を感じるのだ。

あああ、あと1ヶ月もすれば川が割れて魚たちが躍りだすぞ・・・。

スノーシューをはいて森の奥を目指す。クマゲラが無心になってトドマツを突きドドドドと騒がしい。エゾリスが木々の間を飛び跳ねている。春はやい残雪の森はなかなか賑やかだ。僕はどんどん渓流の上流を目指す。

あああ、釣りたてのヤマメの塩焼の旨いことといったら!!

いやいやいや、もう入院なんかしてられないゾ。

春はなんだか落ち着かない。


2005年3月22日(火)

うまいものはやめられない・・・

連休の週末は病院から外出許可をもらって家に帰った。たてまえは「気分転換と生活訓練」ということになっているが、ほんとうの目的は別だ。もちろん・・・。

ずいぶん前から

「あれと、あれと、あれを食おう。」

「いや、あれも食いたいな。」

「あれも捨てがたいな、う〜ん・・・」

などとつぶやきながら指折り数えてその日を待っていたのだ。

何日も前から書きためた“食いたいものリスト”まで用意した。

当然だね。

きのうのランチは予定どおり、近所のベーカリーカフェ「ゴーシュ」に行った。ここではうまいパンと珈琲がいただける。プチ贅沢にはもってこいだ。近所にこういう店があるのは嬉しい。僕のなかでは神戸のトアロード・デリカテッセンと肩を並べる存在で、どちらもうまいサンドイッチが食える店だ。

ゴタゴタ言ってないで、さあ感想を書こう。

ツナメルト・オープンサンド 980円 サラダと珈琲付

一口かじったら、サクッとした歯ごたえにジュワーと広がるツナの肉汁が絶妙だ。うめぇ〜!と、叫んだねオレは。

ツナというからシーチキンのようなものを想像していたんだが、全然違った。トッピングのモッツァレラチーズと刻んだトマトの相性もいい。僕のなかでは一気にNo.2menuに躍り出た。値段も手頃でありがたい。

しかしこのサクサク感ときたら・・・。癖になるぜちくしょう。

これは妻がオーダーしたものだったんだが、じっと覗き込んでいたら、

「しゃ〜ないなあ・・・」というカンジで3分の1を差し出してきたわけだ。

いやいや決して目線に無言の圧力を加えたわけではない。付き合いも20年にもなると、黙っていても大抵の言いたいことはわかるのだ。

その後、妻は当然のように僕のデザートのガトーショコラを奪っていったことは言うまでもない。

自家製ローストビーフのサンドイッチ 1580円 サラダと珈琲付

僕のなかでは定番のメニューになっている。これを食うために帰って来たのだ。食いたいものリストの上位に輝く星だ。絶対これがココの第一級看板メニューだと僕は思っている。さりげなく機内誌に紹介されていたこともあると聞くから、わかる人にはわかるのだろう。ミディアムレアのローストビーフがいい具合の厚みでスライスされ、サニーレタスと一緒に挟まれている。もしB級の店ならば味付けの濃いソースをドバドバやるところだけど、ゴーシュはそういうファーストフード店のような騙しテクとは無縁だ。レタスはレタス、トマトはトマト、肉は肉。味はストレートにやってくる。パンの風味や肉の旨みが存分に引き立てられるソースがこれまたいい。丁寧な仕事をしなければ、この味は出ないだろう。

それにしても、美味い。もし許されるのならば床に転がってのたうち回り、この旨さを表現したいところだ。

オトナの分別が僕を押し留めた。そのかわり、僕は静かに呻いた。う、うまい・・・

僕は学生のころ、神戸市内の歴史の古いホテルの厨房でアルバイトしていたことがある。そこのシェフたちの仕事は丁寧で、しかも威厳さえあった。いい加減なものは絶対に出さなかったし、ささやかなミスにも厳格だった。

そのホテルでルームサービスにローストビーフサンドイッチをオーダーしたらきっとこんな感じだっただろうなと、ゴーシュのローストビーフサンドイッチを食べながら、思ったりした。

そのホテルの洗い場で鍋を洗いながら青くさい学生だった僕は、「俺も30歳になったら、ちゃんとホテルの玄関から入って、あっち(厨房がある裏に対して表のレストラン)で食事をするんだ」と、心に決めていたのだ。ホテルのエントランスは吹き抜けの大理石で、ベルボーイが立っていた。赤いビロードの絨毯が敷いてあったように思う。表側は僕らにとって別世界だった。だから、いつか表に登場してやるという夢は貧乏大学生のささやかな野心みたいなものだった。

残念ながらあのホテルは阪神大震災で倒壊してしまい、神戸が外国人居留地だったころを象徴する貴重な歴史的建物だったホテルは砂塵に帰してしまった。いま僕は30歳を随分と越えてしまったけれど、あのころの夢は叶えられないままだ。

ふと、そんなことを思い出した。

まだ大学生だった僕と妻はよくトアロードデリカテッセンでローストビーフサンドイッチとサーモンサンドイッチを買い、それを港の公園で食べたものだ。そのころの僕たちの、ちょっとした贅沢だった。

今、2人の娘の親になり北海道に住んでいる僕らはこうしてゴーシュのサンドイッチに大騒ぎしながらプチ贅沢を楽しんでいる。自分たちはあのころから何も変わっていないのかもしれないなと感じる。

今はもうないあのホテルの表側のレストランとゴーシュ。

僕らのなかでふと重なって見えた。

 

 

自家焙煎珈琲 Gosh [ゴーシュ]


2005年3月19日(土)

歩こう歩こう

いま、歩いている。歩行のリハビリが始まり2週間がすぎた。

全治8ヶ月と診断された負傷からは、もうすぐ2ヶ月になる。

ふたたび歩き始めた今は、歩くというあたりまえのことが、とてつもなく嬉しい。

負傷した右足からは日に日に違和感が減り、痛みも少なくなってきた。足裏が地面をとらえる感触が何とも懐かしい。どんどん歩ける。

すっかり細くなってしまった腿やふくらはぎも、少しずつ張りを取り戻してきたようだ。この分だと退院も復帰も意外と早いかもしれないと期待も高まる。

きょうまで、歩行には左右両方に松葉杖を突いていたが、来週からは片方だけになる。さらに月末には杖なしの歩行になる。 関節の機能と筋力の回復がこれからの課題だ。プールに通い水泳で回復を図ろうと思う。

復帰が見えてきたら、あれもしたい、これもしたいと、期待がどんどん膨らむ。

まずは山菜とりに出かけよう。オプタテシケ山にタケノコを採りにいくのだ。

ウドやタラの芽もたくさん採れるだろう。春になれば北海道の野山には恵みがあふれている。僕ひとりでは、とても食べきれない。

あああ、また食い過ぎる・・・。

きょうから3月の連休がはじまる。病院ではリハビリもトレーニングジムもお休みになるので、この3日間は家に帰ることにした。外泊というやつだ。

家に帰ったら、あれも食いたいし、これも食いたい。

あああ、また食い過ぎる・・・。


2005年3月18日(金)

焼きソバ食うたる

今朝は冬が戻ってきたような天気。風景がうっすらと白くなり、いまも小雪が静かに降り続いている。やさしい冬の朝のようだ。

昨日、シアワセなことがあったので、もう書かずにはいられない。

二日前、通院のため入院中の病院から外出したのだけど、その帰りは久しぶりに回転寿司トリトンで夕食ということになった。入院している病院食にはいささか飽きていたので、久々の寿司はとびきり旨く、寿司20皿デザート二皿を軽く平らげた。すっかり満足して病室に戻り、そのままぐっすり眠ったのだ。

シアワセだ〜。

しかし、これだけでは止まらないのが僕だ。早速、翌朝から体調に変化があったのだ。いやいやどうも普通の食事量では物足りない。入院当初は病院の食事には質にも量にも不満があったが、入院も2ヶ月にもなるとすっかり慣れてしまっていた。しかし、だ。たった1回の暴飲暴食でこのバランスが崩れてしまったらしい。僕のなかの何かが目覚めてしまったのだ。これには困った。

昨日の昼食後は空腹に耐えられなくなって、ついに暴挙にでた。病院の売店には「マルちゃん焼きそば弁当」(なぜか置いてある)があるのを、目ざとい僕は以前からしっかりチェックしていた。

しかし、おそらく買うこともあるまいと、昨日までの僕は思っていたのだ。

「オレは生まれ変わったのさ。もう暴飲暴食はしないからね、フフフ・・・」

ニヒルに生まれ変わった僕には余裕さえあった。しかし、たった1回の回転寿司20皿丸呑みで、あっけないほど簡単に煩悩に負けてしまったらしい。オトコは煩悩に弱い。ま、僕の煩悩はというと“色”ではなく“食”なんだけど。

昨日の病院の昼飯はたしか豚のショウガ焼定食だった。それに食事制限のない僕にはドンブリ飯がつくが、もちろんいつも通りに完食。さらに僕は売店に直行し、デザートを購入。デザートは禁断の「マルちゃん焼きそば弁当」598kcalだ。もちろん完食。麺の最後の一本が静かに胃に軟着陸するころになってようやく腹が満たされたことを実感した。

あああ、本能のまま食うというのは、何とシアワセなことだろう!

そして昨日午後の僕は、そのまま本能を継続して、夕方までぐっすり昼寝をした。満腹の昼寝ほどシアワセなものはない。結局、毎日決して欠かすことがなかった午後から2時間のトレーニングジム は休んでしまった。

あああ、シアワセだ〜。

もちろん晩飯は普通に食い、寝る前には菓子までつまんで、昨夜はさっさと寝てしまったことは言うまでもない。

南無。


2005年3月17日(木)

山は攻略するもの?

山が好きかと聞かれたら、もちろん好きだと答える。しかし山に登るのは、山が好きだというよりは自分がまだ見たことがない知らないものを見てみたい体験してみたいという“わんぱく精神”だと思っている。だからそれは、僕の場合は必ずしも「山」とは限らない。

山には「ハチマキ」がよく似合う。「根性」とか染め抜いていたらなお良い。それを変だとは誰も思わないだろう。登山愛好家の間にはなんとなく、そんな雰囲気がある。

登山用語でよく使われる「アタック」。そのまま「山頂攻略」とか「攻撃」という言い方をする人もいる。言うまでもない戦争用語だ。根性だ。しかし・・・。

山を歩くということは自然に身を委ねるということで、自然を制する、抗うわけではないはずだ。しかしながら、「アタック」「攻撃」という言葉からは、穏やかならぬ空気を感じる。もっと楽しめばいいのに。そう思ってしまう。

僕は、山登りは根性試しではなく観光行為に過ぎないと思う。つまり遊びだ。だからもっと楽しめばいい。賛否両論の分かれるところだけど百名山めぐりもいいだろう。しかし、100の山頂を「達成」するために何がなんでも山頂を「攻略」しようと「頑張って」しまうから、無理をして山頂への道を死への旅路にしてしまう。無邪気な好奇心で遊べば、山はもっと楽しい。

山頂攻略に興味がない僕は自分の肩書きが時に恥ずかしいし不満もある。「山岳ガイド」とあるが、実は山頂にあまり興味がない。そんなことよりキノコや山菜や魚に興味がある。縦走路をテクテク歩くことが好きで悪天候とのスリル満点の駆け引に興味がある。山頂よりも下山をスキーで滑っていくことが好き。なんというか、僕は、「野山あそびガイド」なのだ。でも、そういう不真面目な公認資格がないから仕方なく「山岳ガイド」なる試験をうけ、2、3回の試験に合格してあっけなく公認ライセンスを取得してしまったけど、僕自身は別に大した努力はしていないし、何がなんでも合格しようとは思わなかった。しかし合格してしまったから、肩書きがついてきた。でも僕は、あくまで山頂には興味がない人だ。チョモランマ登山よりもカラコルム・ハイウェイを縦断することに何倍もときめくし、アコンカグア登山よりもMTBでパタゴニア縦断するほうがときめく。カヌーもカヤックも釣りも好きだ。それに泳ぐのが得意だから、僕はどちらかというと、海のほうが向いているかもしれない。瀬戸内育ちの僕が素潜りしたら、ちゃんとサザエやらアワビやらを掴んで浮かんでくる。でも、肩書きは「山岳ガイド」。おおいに違和感がある。

僕にとって山は攻略するものではなくて「遊び場」。仕事場とも思わない。それに、夏の登山ならば高い金払ってガイドツアーに参加する必要なんか全然ない。青い空を仰ぎ見て、頬をなでる風が優しいと感じたら、あとは山頂への道を歩きだせばそれでいい。ただ、無理をしてはいけない。ここまで来た旅行代金とか云々とか、そういう損得勘定は捨てて、ただただ無邪気になるべきだ。これは遊びなんだから、必死にならなくていい。

自然に抗った末にたとえ山頂を踏んだとしても、苦い思い出にしかならないと思う。それに、誰しも決して常勝将軍ではない。必ず失敗する日がきて、おそらく無事では済まされない。“攻撃”には“反撃”がつきものだ。

天が微笑む日。あなたは青空に誘われるままに頂へと導かれる。そして自分の力だけで踏んだ山頂はきっと爽快だろう。いつまでも忘れない思い出になると思う。それはあなたが山を攻略したのではなく、自然がくれたご褒美だ。

天が微笑むとは、よく言ったものだと思う。


2005年3月16日(水)

中華ソバの思い出

北海道のラーメンは本当にうまいのか?う〜ん、返事に困ってしまうなあ・・・。好みにもよるだろうし、北海道ラーメンという統一ブランドはないから、一概にはいえない。でも、たしかに北海道の町にはラーメン屋は多いように思う。

北海道に移ってきて最初のうちは珍しさも手伝っていろいろ食べてみたものだ。どこもまあ、そこそこ旨い。(一部の例外を除いて)しかしながら、どこも値段が高すぎる。700円とか、750円とか、たかがラーメンにそんなにカネは出せないよ〜。ファミレスのほうが安いし、子供も喜ぶ。

自分ランキング1位に輝くラーメン屋は、実は北海道ラーメンではない。僕が育った瀬戸内の港町にある「M病院の屋台」と呼ばれていた屋台で、メニューは「ラーメン350円」。無口なおじさんが黙々と麺を茹でていた。

しょうゆ味の透明なスープに、細ちぢれ麺。薄切りチャーシューが5枚。シナ竹とカマボコと細葱。以上。ごく普通のラーメンで、一切の飾り気はない。僕らはラーメンとは呼ばず、中華ソバと呼んでいた。老若男女みなが屋台のまわりに群がって、崩れた塀や石段なんかに腰をおろして中華ソバをすすっていた。ときどき、向かいの病院の患者さんがパジャマのままで降りてきて屋台の取り巻きに加わっていることもあった。この屋台は、僕らの生活の一部にすっかり溶け込んでいたと思う。

その屋台は70歳くらいと思われるおじさんが引いていた。軽トラックではなく、そのおじさん本人が毎日ちゃんと引いてきていた。雨の日は休みで、定休日はなかった。照明はロウソクで、それでもやっぱり暗いから街灯の下にいた。遅くいくと茹で汁が悪くなるから麺がヌルヌルしていて、だから僕はいつも5時くらいに行くようにしていた。早めにいくと麺はサラサラで格別旨かった。さて、そんな M病院の屋台、最後に行ったのは10年ほど前だと思う。今はもうその町には実家がないから行く機会がないけれど、きっといまも、あの街角に屋台があって、 近所の野良猫や無口な人々が群がっているような気がする。

北海道でラーメンを食べるときも、僕はいつも「M病院の屋台」を思い出す。

いつもの350円の中華ソバ(ラーメン)。少し欠けたラーメンドンブリ。透明であっさりした、おいしいスープ。石段にすわって夢中ですすった味。

ふと、目の前にあるラーメンを比べてしまう。最近のラーメンはいわゆる「ご馳走ラーメン」で、分厚い焼き豚や凝ったスープと豪勢なものが多い。その分だけ当然値段も高い。でも僕はやっぱりラーメンは質素であってほしい。質素で素朴だったあの屋台を思い出して(申し訳ないけれど)幻滅してしまうのだ。

北海道ラーメンも、もともとは質素で素朴な庶民の味であったはずだ。しかし今では「ご馳走系」が主流で、コテコテのものばかりが目立つ。500円以内で食べられる素朴なラーメンを僕は食べたい。でもなかなか見つかりそうもない。

※M病院の屋台・・・今でも営業を続けているという。値段は400円になっているらしい。


2005年3月15日(火)

大きなサイズで文句ナシ わかりやすい男たち

また失敗してしまった。病衣(入院患者用パジャマ)の支給のとき、なんとなく大きめサイズを頼んだのだが、失敗。何しろデカすぎる。ズボンはユルユルで、朝起きたら半ば脱げていて“半ケツ”だった。僕は布団を蹴飛ばして寝るから、夜の見回りのとき、きっと看護婦さんにケツを見られただろう。

この手の失敗は数多い。ある有名メーカーの決して安くないパーカーはもちろん試着してから買った。でも着込んでくるうちに生地が馴染み、その頃になってようやくサイズが大きすぎることに気付く。でかいサイズを来たブカブカ男はかなり格好わるい。ガキみたいだし、それにデブに見える。 おまけに困ったことに自分ではなかなか気付かないらしい。写真に写っている自分を見てはじめて滑稽な姿に気付いたりする。(そこの兄さん!心当たりあるでしょ?)

僕はこういう失敗には事欠かない。大き過ぎる服、大き過ぎるシャツ、大き過ぎて靴ズレする靴などなど。きっと僕に限らず男性には多い失敗例だと思う。

男の子(牡)は自分を実際より大きく見せよう、大きく見えてほしい、という欲望が本能として備わっている。 誰もが大きくなりたい、Bigになりたいのだ。潜在的に「大きい」ことへの憧れをもっている。だから、何でも大きめを買って(与えて)おけば満足する傾向があるらしい。服だってMサイズで充分な人がLサイズを買い、またある国産メーカー (モンベルとかモンベルとかモンベルとか)は明らかにゆったりサイズに作っている。

靴もそう。実寸25センチの人は大抵、26センチを履いている。だから僕の店のレンタル品もその「本能」というか、好みの傾向に注目してこれにならい、先手を打ってきた。

レンタルの(テレマークスキー)ブーツ。マジックで「26センチ」と書いているものの、本当は27センチ。しかし26センチと書いているブーツをみて大抵の人はさらに上のサイズを要求する。27センチを履いて満足する。これは本当は28センチ。26センチの人の実際寸法が25センチ前後であることを考えると、25センチの人が28センチを履いていることになる。 一応は「これじゃ大き過ぎるからムニャムニャムニャ・・・」とアドバイスなどしてみるが「どががばば!」と勢いよく反論されるのがオチ。まあ、いつものことだ。でも、これではうまく履きこなせるハズはないわけで 本人は大変な苦労をする。これはまあ仕方ない。

ガイドの山小屋はきょうも大き目のレンタルブーツを出し続ける。25センチの人が27センチから28センチのブーツを履く。「このほうが楽だ」と言っている。そりゃそうだ。デカイんだもの。でも“楽”と“履きこなし”は別。サイズが違うと折角の性能は発揮できないから。曲がる部分が決まっているプラスティックブーツは、サイズが合わない場合は、履く人の関節の部分と可動部分がズレてしまうから、ただの硬い靴になってしまう。これではスキーをうまく扱えない。

僕はふだん26センチの靴を履いているけれど、実寸は25.3センチ。ただし幅が広い。そんな僕は幅広で定評のあるメーカーの25センチ用のテレマークスキーブーツを履いている。ピッタリ、ピチピチのサイズというわけで、今ではすっかり慣れたからプラスティックブーツが革靴のような感触に思えてくる。 スキーがあまり得意でない僕がそこそこに滑れる理由は、このへんに秘密がある。 道具の性能を無駄なく引き出してやることができれば、いい道具をつかえばソコソコに何とかなるわけだ。

でも、うまく使えなければ実力どおりのボロがでる。僕は新品のブーツとスキーにうまく馴染めず、それなのに調子にのってガンガン滑って原生林の大木に激突して果てた。いま入院している僕の経緯である。

やられた〜。

男の子は何でも大きめサイズを求める。売り手は、そのことを充分に理解して、わかっているけど「言われるまま」に従っている。言葉を返せば何かと角が立つから、黙って従っている。でも心のなかでは・・・。

「大は小を兼ねる」というけれど、実際それはどうなんだろ? 大きいものを与えておけば相手は満足しているわけだから、あれこれ考えないで黙ってそうしていなされ。先人が言いたいことはそういうことかもな。と、考えてみたり。

みなさん、大きめに惑わされてはイカンよ。

 

あ〜あ、この、でかすぎる病院パジャマ。今夜も半ケツ全開ってわけか〜・・・。

せめて、かわいい柄のパンツでも履いておくか。(ないない)


2005年3月14日(月)

車椅子でGo!

「僕は車椅子なんです」というと、世間は一様になんとなく同情してくれることが多い。しかし、車椅子は世間が思うほど、不便ではないんですねぇ、コレが。

きょうは、車椅子で得したことをつらつらと書いてみよう。

ケンタッキーフライドチキンにて。食い足りなかった僕はチキンを追加注文しにひとりで車椅子を漕いでカウンターまで行った。2ピース買う。単品の場合いつも細かい骨がたくさん付いているアレが当たるんだけど、お姉さんは厨房に専門用語で何やら要望している。渡されたのは骨付き肉、Ohラッキー!

飛行機にて。羽田空港ではスタッフ介助のもと貸切専用リムジン(本当は専用の昇降装置つきバス。車体がぐんぐん持ち上がり、機体にドッキングするというすごいヤツ)で飛行機まで送ってくれる。乗るときはスチュワーデスさん全員のお出迎えがあり、降りるときも全員のお送りがある。機内ではスチュワーデスさんがまさに手取り足取りのVIP待遇。手が空きさえすれば、常にそばにいてくれる。あまり優しくされるので自分は幼い子供になったような気になってしまう。なんだか申し訳ないくらいだ。ファーストクラスでもこうはいかないだろう。

(注:丁重に扱われたのはそのときの重症度と付き添いの有無も一因にあると思う。そのとき僕は右足が全然曲がらず介助の付き添いの同行もなく、きっと要注意の人物だったと思う。)

税務署や福祉事務所、社会保険事務所など、感じ悪い対応の代表格に列する役所でも、役人に嫌がらせをされない。これは意外だった。(ふだんはよくプチ嫌がらせをされる)

ふだん大変混雑している回転寿司の人気店で、優先的にボックス席に案内された。

多くの車椅子トイレは広く明るい個室で、しかもきれい。

車椅子専用駐車スペースに車を堂々と停められる。

車椅子はけっこう速い。

いつも座っているので、長時間のショッピングがラク。

服装に気をつかわない。(ジャージで外出オッケー)

妻が小遣いをくれる。

母が小言電話をかけてこない。

娘が面白がっている。

などなど、などなど。

 

総じて、どこに行っても必ず優しくしてくれる人に出会う。得に女性に、年齢に関係なく、優しくされることが多いみたいだ。先にも延べたが、幼い子供に戻ったような気分になることがある。おばさん、お姉さん、みんな優しい。

世知辛い世の中だと言われるけれど、けっこう悪くないなと思う。


2005年3月11日(金)

冬の暮らし

きょうも小雪の舞う天気、気温もぐっと低い。3月だというのにすっかり真冬に戻ったかのようだ。雪解けはまだまだ遠い。

僕が移り住んだ北海道美瑛町。ここでの暮らしは大変気に入っている。夏はもちろん、北海道は冬がいい。冬の暮らしはやさしく、美しく、あたたかい。学校に通う子供の背中も楽しそうに見える。雪を蹴飛ばしながら歩いていく。

ただ、おおきな不安もある。

たとえば降雪量が多い。ここの雪は激しい。

今は雪を楽しんでいる。冬に惚れて移住してきたし雪のおかげで仕事ができる。冬が大好きだ。しかし年寄りになったらどうか。なるほど優れた除雪機械をつかえば車を運転するように除雪ができるだろう。しかし、運転免許を返上する年齢に達したらどうするか。そのころ僕ら夫婦はヨボヨボだ。体が不自由になる日は必ず来る。さらに妻ひとりになったらどうか。年寄には、特に女性の細腕には、 ここの雪はあまりに酷だと思う。

隠居したら美瑛でのんびりリゾート生活とは、どうやらいきそうもない。理想は、なかなか遠くて険しい。

今回、僕が真冬に入院して懸念はいち早く現実になった。でも今はまだいい。屈強なガイドがいて親切な隣人もいる。しかし引退後はどうか。自分の入院で、プチ老後を見る思いをした。

他にもまだまだ問題はある。医療、割高な公共料金や光熱費。そのほか。

とりあえず、今は今の生活を楽しもう。それでもやっぱり冬が好きだから。


2005年3月10日(木)

脱走事件

昨日、僕が入院している病院が一時、 騒然とした。入院患者のひとりが忽然と姿を消したらしい。朝になったらベッドはもぬけの空だった、という、よくあるパターン。ふだんは平穏な病院じゅうが大騒ぎになった。朝の7時には家族が飛んできて、すぐ向かいの病室にいる僕もいろいろ聞かれた。そのうち警察に捜索願も出されたという。なんとも騒がしい1日だった。

姿を消した患者は糖尿病で、放っておくと重篤に陥り、最悪の場合は命にかかわるという。糖尿病は怖い病気だ。

結局その人は夜になってフラリと帰ってきて、ただのお騒がせだったわけだけど、僕はその方になんとなく同情する気がしないでもない。

同じ病棟にはいろんな患者がいて、そのいろんな患者が食事のときには一斉に顔を合わせる。下は十代から上はお年寄りまで、年齢もさまざまだ。みんなで賑やかに食事をする。これが大家族のようで、けっこう楽しい。

ただ困るのは、食事の内容に差があること。糖尿や梗塞の患者は食事制限が厳しい。特に糖尿患者が厳しい。僕のように骨折や靭帯の手術などの患者には食事制限がないから、普通の食事がでる。ときには全然違うメニューになってしまう。

これが困る。

たとえば、3月3日には「ちらし寿司」が出た。糖尿食は、やはり粥だった。

ある週末は、「なめこ蕎麦」だった。糖尿食は、あいかわらず粥だった。

もちろんおかずにも同様の差がでる。糖尿患者はテーブルでそれを見比べながら食べるのだ。これは辛いに違いない。実際、普通食の僕はいたたまれなくなることもある。糖尿の患者はもっと辛いだろう。

いつもは楽しい食事のテーブルが、重苦しい空気に包まれることがある。

入院生活のストレスもあるだろうが、食事のストレスはきっと耐えがたい。しかも糖尿の場合は数ヶ月という長期入院になるから、なおさらだ。

僕はこの入院生活の間、ジムに通うことで入院のストレスをうまくガス抜きしてきた。しかしそれも食事がまともだから出来るのかもしれない。普通食の僕でさえ食事が足りないと思ってるのに、粥ではきっと体は動かない。それではガス抜きさえも、できないだろう。

こうして病院にいるとようやく、いかに健康が大切なのかがわかる。

怠惰からくる過剰なカロリー摂取には気をつけねば。糖尿病は決して他人事ではない。ウマイウマイと脂身を食って(飲んで)いたら、大変なことになるかも。

でも、「大盛マルちゃん焼きそば弁当」は、やめられないだろうなあ・・・。

ジンギスカンのあとに残った汁も、捨てがたい。ああ飲みたい・・・。

ああ、オレも脱走したいぞ!


2005年3月9日(水)

山菜、山菜!

まずは、きょうのお天気から。(朝のニュースみたいだ。イェーイ)

昨日の夕方からふたたび降りだした雪がずんずん積もって今朝はまとまった雪の朝になった。まったく冬に逆戻りしてしまった。30センチくらい積もったのではないかと思う。旭川市内がコレだから美瑛町の山沿いのマチにある僕の自宅兼オフィスは今ごろ朝の除雪に大騒ぎしているかもしれない。なにしろ除雪しなければツアー車が出動できないし、それどころか参加者は店に入ることさえできない。やれ機械除雪だスコップだと大忙しだろう。

朝7時、旭川の町はなお薄暗く、雪はいまも降り続いている。

それでも春はやってくる。春の楽しみといえば、僕は山菜。野に咲く花よりも食えるほうがいい。美味ければ、なお結構。しかも山菜はタダだ。(イェーイ)

  春=あたたかい

  春=渓流釣り

  春=山菜

  春=おいしい

  春=タダで食える

春ってとっても、ス・テ・キ♪(イエーイ)

あと1ヶ月もすれば、残雪の残る野に“ふきのとう”が顔を出すだろう。天麩羅にしてよし、和え物にしてよし。特に「蕗味噌」は保存がきき、いつまでも春の香りを楽しむことができる。ご飯にのせてよし、そのままでよし 。鮭の味噌焼きに用れば料亭もびっくりの贅沢な一品に生まれ変わる。蕗味噌は春の山菜料理のうちでも最高の美味にあたる。

もちろん、タダだ。(イエーイ)

おいしいふきのとうだけど、あの苦味が苦手だという人も多い。しかしそれは、うまく苦味を抑えるコツを手抜きしているからだと思う。

あの強い苦味はアクだ。うまくない。でもアクは避けることができる。

ふきのとうの苦味であるアクは、ふきのとうが自分の生命の危機を自覚するようなダメージを与えた瞬間から体内に放出されるらしい。つまり「痛っ!」と悲鳴をあげているわけで、声にならない叫びがあの苦味の放出。だから ふきのとうを痛めつけてはいけない。つまり 、ふきのとうに痛みを感じさせずに料理することができたら、アクの苦味は避けられる。こうしてやさしい料理人である僕は「秒殺」を目指す。

このへんは魚料理にも共通するところがある。魚も苦痛を与えれば、極端に味が落ちてしまう。だから素早く〆る。

僕はふきのとうを採るとき、すぐに氷を詰める。そこらへんに残雪があるから氷には困らない。氷で冷やすことによってふきのとうは、自分の死を知らずにいるらしい。切り口の変色もおだやかだ。言うまでも無く変色の原因はアクの放出による。変色する前にすばやく料理するのだ。

天麩羅ならば、そのまま衣をつけて揚げてしまう。切ってもいいが、切るとヤツに死を悟らせてしまう。だから切らないほうが美味いと思う。

ふきのとうの天麩羅は、サクッとした薄い衣のなかに柔らかな甘味と香りがジュンと閉じ込められて、それはそれは美味い。でも切ってから揚げると、せっかくの甘味と香りは揚げ油のなかにすっかり逃げていく。ふきのとうの天麩羅は、野山のカキフライだ。ジューシーさがたまらない。

苦味を抑えることができれば、そこにはやさしい甘味がある。口に運べば、あたりいっぱいにいい香りが広がり、食味をそそる。

春の味だ。


2005年3月8日(火)

冬将軍がんばる

昨日の日和から一転して朝から荒れた天気。きょうは吹雪の幕開けになった。

これまでの積雪がぬかるんで、ぐしゃぐしゃ悲惨な物体になったその上に新雪が降りつもる。いったいどうなっちゃうんだろう?(すごいよ)

と思ったら、昼をすぎて唐突にも晴れてしまった。アスファルト上の雪は一気に溶ける。3月の日差しが眩しい。(室内でもサングラスがほしいくらい)

でも、振り返ると山(十勝連峰と大雪山)は、いかにもおどろおどろしい真っ黒な暗黒星雲の真っ只中だ。きっと猛烈に荒れているだろう。

冬将軍が、まだまだ頑張っている。3月とはいえ油断ならない。それでも、往年の勢いはなくあきらかに衰えが目立つ。もう少し頑張ってくれたほうが、長いあいだ雪遊びを楽しめるんだけどな。

入院中の病室の窓からながめる景色も、雪景色ではなくなると、一気につまらなくなってしまうような気がする。(きっと、つまんない)

そしたら1日も早く退院したくなるから、かえって良いのかもしれないけど。

今は仮に退院したとしても好きな野良仕事や野山歩きができるわけではなく、野良スキーができるわけでもないから、このまま病院でノンビリ気楽に過ごしていたい、かな。 (おっと本音)

したっけ、ここにいると食後の珈琲をゆっくり飲めるし、本をたくさん読めるし、しかも妻はちゃんと小遣い銭をくれる。なんとなく王様気分。(いたって単純) 

いま読んでいるのは「南極越冬記」西掘栄三郎著。第一次越冬隊の記録。飾り気も誇張もない言葉で綴られた日記にたちまち引き込まれていく。子供のように夢が膨らみ、わくわくするなぁ。


2005年3月7日(月)

熊笹 「くまざさ茶」編

きょうは朝からいい天気。しかも暖かい。早朝もプラス気温で推移し、さらに気温はぐんぐん上がって、まもなくプラス10度になろうとしている。生あたたかい南の風が大雪山や十勝連峰三段山のある方向から吹いてくる。町はもちろん野も山も雪解けは急ピッチだ。北海道にも春がやってきた。

さて、きょうはお茶の話。それも北海道土産のB級アイドル的存在の「くまざさ茶」。あれはどうやって作るのだろうか?うまく作ると番茶に近いものができる。材料はタダだ。タダ!う〜ん、心地いい響き。土産としても喜ばれるかもしれない。では作ってみよう。

材料は熊笹の葉。そこらでキレイなものを刈り取る。これで準備終了。

ね、カンタンでしょ♪

2〜3週間、風通しのいい場所で陰干しをする。洗濯ロープに洗濯ハサミでどんどん干していく。軒先やら天井やらあちこち。

あとは、よく乾燥したヤツから順に薬缶につめこんで煮るだけ。けっこう贅沢に薬缶に詰め込もう。

薬缶はデコボコになったアルマイトがいい。ルンペンストーブと呼ばれるブリキの薪ストーブ(北海道内のホームセンターなどで普通に売られている。3千〜4千円)に載せると、なおいい雰囲気になる。「北の国から」っぽい。おしゃれ♪

あとは、縁が欠けた茶碗でその茶をいただこう。開拓精神の侘び寂びを実感できること、うけ合いだ。

笹の葉には防腐作用と利尿作用があるという。よく鱒寿司や押し寿司を笹の葉で巻いたり、釣った魚をいれる魚篭に笹の葉をいれておくのは、防腐作用を知っていた先人の知恵によるものだ。これを茶にして飲んで体に悪いはずはない。いかにも健康な体になりそうだ。

ま、茶というより、煮汁だけどね。

でも、これが結構いける。晩秋の森の香りがする。


近況報告  全治8ヶ月 病室からのレポート

1月23日に山中で立ち木に激突して足を骨折し靭帯を痛めてからきょうで6週間。心配していたガイドの山小屋のツアープログラムは3人のガイドがそれぞれに役割を分担して、僕がいなくても何ごともなかったようにツアーが行われている。かえって好評のようだ。また、これらのツアーは陰になり日向になり山の仲間たちが支えてくれているという。ほんとうに仲間はありがたい。

負傷したとき、自分のことよりもたちまちに明日からツアープログラムに支障がでることを心配した。咄嗟に思いついたのは、このツアーの原型をすでに20年前から行っていた大先輩、山岳プロフェッショナルのN氏のこと。N氏は悠々自適の人で50歳で引退したあと空知川の河畔に丸太小屋をたてて暮らしている。冬は遊びまわっているらしい。ツアーを頼めばきっと快く受けてもらえるだろうと思った。N氏 は頼りになる僕のオヤジ、しかも誰もが認める北海道のプロガイドのパイオニアだ。 しかし確約はない。とりあえず、明日をどうするか?

そんなとき僕を心配して声をかけてくれたのが山の仲間たちだった。何とタイミングのいいことに、下山した白銀荘には仲間たちが何人も居て苦笑いする僕を励ましてくれた。そんな偶然も重なって、僕は仲間たちに甘えることにした。人の親切が身に染みることは度々あるが、今回ほど有難いと思うことはそうあることではない。 ただただ嬉しかった。

もちろん不安がなかったわけではない。お客さんを連れるガイドツアーと山仲間が集うパーティのツアーは似ているようでも内容は全然違うものになる。 まず、お金のやりとりがある。参加者は「お客さん」だからどうしても一種の主従関係が生じる。それから装備服装も違う。山仲間の場合は参加者が完璧であることが当たり前だが、ガイドツアーの場合は 不十分箇所をガイドがあらゆる面からサポートしてカバーすることになる。技術面にしてもそう。経験豊かなガイドになると老若男女を問わず中高年も初心者をも満足させてしまう。 個々のガイドの力量はそこに賭かっているといえる。スキーが上手、体力があるからといって明日からガイドが出来るものでは決してない。

引率の難しさはきっと想像以上だろう。いきなり打ちのめされるのではないか?いきなりのデビューで生じるストレスは、はかり知れない。よほど精神的にタフでなければ耐えられないだろう。ふつう1ヶ月目くらいにストレスは最高潮に達する。実際に過去10年間のアルバイトのガイドたちの多くが1ヶ月目のストレスでリタイヤしている。みんな必ずといっていいほど、その時期にくじけてしまうのだ。ほんの何か、ささいなことがきっかけで爆発してしまう。きっとそこが正念場になるだろう。

しかし、僕にはなぜか「きっと大丈夫だ」という確信のようなものもあったし、何か新しいものが生まれる気がした。熱いハートというのは何物にも変えがたい。それに期待した。 そして無事に魔の1ヶ月を乗り越えたようだ。こうして今に至る。

古くからの常連さんの中にはN氏のツアーを知っている人もいる。それは味わい深いものだった。僕も学生のころN氏に連れていってもらったことがある。またバイトの1人として仕事を手伝ったこともあった。 プロの山岳ガイドになってからも何度か一緒に仕事をさせてもらった。頼りになる、でっかい人だ。機会があればまた一緒に仕事をしたい。僕はまだまだ未熟で、教わりたいことが山ほどあるから。

 

《経緯》

1月23日、立ち木に激突するも無事下山。負傷後は左足1本だけで滑った。最後までガイドツアーを終わらせて、吹上温泉白銀荘から直接病院に向かう。

1月24日、ふたたび精密検査のために来院。面倒な負傷だと 診断された。全治8ヶ月。回復は秋までかかる。緊急の手術のために転院をすすめられた。最初に診察をうけた旭川医大から隣の旭川リハビリテーション病院に転院。

1月25日、入院。長い治療生活が始まった。

 

3月6日 日曜日

負傷から6週間後のきょう、とりあえずこれまでの回復は順調。5日前にはギブスが外され、関節を曲げる訓練が始まった。ずっと固定されていた右足はすっかり細くなっていて、自分の足ではないようだ。

いっぽう、この6週間の間、何もせずに寝ていたわけではない。この病院はリハビリを専門に行う病院で、僕にも専属の理学療法士がついた。小さなトレーニングジムがあり、自由に使うことができる。毎日2時間汗をかき、理学療法士の指導をうける。 健康な左足もトレーニングしてもらっている。僕の足は非常に発達しているが、ある部分は十人並みで筋力のバランスが悪いという。スポーツ医学は自分には関係のない話だと思っていたけれど、怪我がきっかけで接する機会を得た。ありがたいことだと思う。調整をはじめてからはすこぶる調子がいい。

上半身のトレーニングは遠慮なく行えるから当然熱が入った。毎日自分で決めたメニューをこなしている。いま左足は入院前よりもひと回り太くなっている。右足はまだ動かない 。

左足は太くて短足。右足はヒョロリとしていて左より2〜3センチ長い。変だ。

上半身は腕にも胸にもビンビンした張りが生じた。左足は腿もふくらはぎも固く締まっている。ただ、腿の裏にあったはずの“ちからコブ”はいつの間にかしぼんでしまった。残念だけど仕方ない。また右足と一緒に MTBで鍛え直そう。リハビリを兼ねて秋にはまたMTBで旅に出よう。今度は国境を越えるんだ。

きょうはリハビリもジムもすべてが休みで休息日。自主トレも左足のスクワットと各関節の柔軟しか行わない。ギブスが外れた右足は昨日までに125度まで曲がるようになった。ただ、激しい痛みも伴う。歩くことはまだ全然できない。来週からは少し体重をかける訓練が始まると思う。退院はまだまだ先だけど、徐々に自信がついてきた。

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《link》 困ったときは誰かがそっと手を差し伸べてくれる。それが北海道。大好きだ。

三段山クラブ 全面的に手を差し伸べてくれた山の仲間たち。すべて善意、駆け引きなし。僕には過ぎた仲間だ。

 宿 とぅもろう 隣の宿。大雪が積もるたび除雪の応援に駆けつけてくれた。おかげでツアーの車は出動できた。

 Qali -クウェリ-  ガイドかっちゃんが 兄キと尊敬するぱっちまん。かっちゃんが何かと世話になったらしい。ありがとー。

cafe ゴーシュ ツアー車が燃料切れ、ピーンチ!そのとき登場したオーナー。「困ったときはお互い様やで」 感動。

 


2005年3月6日(日)

熊笹 快適?くまざさ生活のススメ  

北海道土産のコーナーの片隅、ほとんど忘れられたような一角に「くまざさ茶」なるものを見つけたことがある方もいるだろう。その、「くまざさ茶」、あれは簡単に作れる。うまく作ると、とりあえず番茶に近いものになる。

材料はそう、熊笹なのだ。それだけ。登山道やら道路脇から始まって森のどこまでも覆い尽くしているあの熊笹ですね。

びっしり密に生え、森への侵入者を容易に寄せ付けない。また、これを撤去しようにも根はガッシリと固く、網目を編んだように絡みあっている。

僕は自分の家を建てる際、もともと原野であった敷地の木を伐り、熊笹を撤去するところから始めた。僕が持っている機械といえばチェンソーと草刈り機くらいなもので、熊笹の根を土から起こすのはもっぱらツルハシだった。畳2枚くらいの熊笹の根を撤去するのに1時間くらいかかることもある。ほんとシンドかったよ〜・・・。

熊笹は、野生の領域に立ち入ろとする者を拒むという役割を担っているのかもしれない。実際、かなり手ごわいのだ。(いやホントに)

そんな、人間の文明にあくまで抵抗するような素振りを見せる熊笹だが、実はけっこう役に立つこともある。“食えないヤツ”だと思ったら、これが食える。

ほんとに食えるんだよ。(ほんと、ほんと。)

まず“竹の子”ならぬ笹の子が食える。これは有名。北海道では普通に“竹の子”と呼ばれていて一般に広く親しまれている。これは採れたてを焼いて食うのが特に旨い。僕は5月下旬には必ず竹の子採りに山に入り、何キロも収穫する。誰でもそれくらいは簡単に採れるから楽しいし、それにおいしい。

それから燃料としての熊笹。茎に脂分があり、よく燃える。雨上がりの湿気の多いときに火を起こすときの火種として重宝する。ただし、そのまま火を付けても簡単には燃えない。笹の茎には水分も多いから。火を立ち上げるにはちょっとした工夫が必要だけど(サバイバル教程ではないから紹介はしないけど)、5分もすれば盛大な火を立ち上げられる。食えるというか、これは使える。

簡単な小屋掛けをすることも簡単だ。熊笹の茎は2m以上あるものも少なくないから、これを編むと容易くテントのような骨組みが完成する。屋根には茎を残したままの葉をびっしり乗せて、床には葉をびっしり敷き詰める。これだけでいい。30分もすれば、けっこう素敵な緑の家が完成する。下手なテントより快適だし、香りがいい。これはアロマっぽいかも。食えるというか、住める。

ただ、地面からの湿気は防げないから、ここにシュラフを敷いて寝るとシュラフはすっかり濡れてしまうことになる。それに蚊やアブの来襲は防げないから、あくまで仮小屋として使うこと。夜は大変なんです。(いやホントに)

それから熊笹茶。あれは葉を使うんだけど、漁師の番屋や道東の海沿いの民家では今でもごく普通に笹茶が使われている。冒頭で紹介したように、捨てるほどある熊笹が、番茶のような茶になる。つまりタダなのだ。

うまくやれば衣服も作れるかもしれない。衣・食・住。それから人間の生活に欠かせない「火」、それから「茶」。これらが何となく熊笹から調達できたりするわけだ。しかもタダだ。素晴らしいではないか。

 

タダってほんとに素晴らしい!

そんな熊笹の利用レポートはまた後日。

立ち向かえば厄介な難物になってしまう熊笹だけど、うまく使えば役にたつ。これも自然との共生といえるかもしれない。(というか、身近なおいしい話だね)

おいしい話はやっぱりうれしい。


2005年3月5日(土)

森の仲間たち キタキツネ その1  

その日僕は知床半島にある野営場にいた。野営場、つまりキャンプ場のことだ。その野営場は道路をはさんで無料の公共露天風呂に隣接していて、野営場はその露天風呂の名である「熊の湯」と呼ばれている。

僕のテントは入り口からも水場からも少し離れたエリア、少し小高い場所にあった。僕は賑やかな場所よりも静かなほうを好む。ここで、おおよそ1週間ほどの滞在を考えていた。荷物の運搬が大変だったけど、そこからは野営場の西半分のエリア全体が見渡せた。

すぐ背後は知床の森が広がる。夜になると藪のなかからザワザワと小動物の歩く音が聞こえてくる。熊の心配がないわけではないが、知床の熊はあまり危険ではないから(と、勝手に決めている)、あまり気にする必要はないと思っている。(たぶん・・・)

野営場のすぐ前の道路脇を流れる小川では、イワナ(蝦夷名オショロコマ)がたくさん釣れたから晩飯のおかずに困ることもない。甘辛く煮ると美味いんだなコレが。風呂があってオカズに困らない。こんなところは最高だ。

そんな知床でのある朝のこと、早朝のまだ冷んやり肌寒いうちからテントの入り口を大きく開いて、朝のお茶でも飲んでいるときだったかと思う。野営場のなかを1匹のキツネがブラブラ歩いていて、それを僕は眺めていたのだ。北海道ではキツネなど珍しくもないから(野良犬よりも野良キツネのほうが多いから)、ただ日常の光景としてボンヤリ眺めていたのだ。どうせ残飯でも探しているのだろう。バイク旅の連中は総じてゴミの管理が雑で、コンビニ袋にいれた残飯まじりのゴミをどこにでも捨てていく。それをキツネやカラスが持ち去ってあちこちでズタズタに引き裂いて、それをやはり放置していく。そんなゴミは森の奥や谷底、高い木の上に引っかかっていたり、あるいは道路上で風に吹かれていたりする。文字通りの散乱。こうなったらもうお手上げだ。

ほんとは僕ら人間が悪いんだけど、なんとなく、

「このやろうキツネめ」

「まったくカラスのやろう、うぜーよ」

みたいなことになっていく。キツネやカラスはなんとなく人間の敵みたいな印象があるのはそのせいもあるだろう。

さて、そのお散歩キタキツネ君。これから何をするんだろうか。観察を続けてみた。あっちクンクン、こっちもクンクン、何かを探しまわっている。人の気配にビクンと反応したりするが、立ち去ろうという気は全然ないようだ。

そのうち、あちこちのテントに近づきだした。テントのそばには残飯があることが多い。フライシートの下にコフェルごと火器ごと前夜の残り物なんかを置いたことがある方は多いだろう。でも、キツネだってちゃんと知っているのだ。そこにメシがあることを。そんなところにガス器機や残り飯をおいておくとキツネやらキツネ目の男に盗られちゃうんだよ。気をつけよう。

奴はあるテントに興味をもったようだ。クンクン匂ったり、飛び下がったりを繰り返している。肝心のテントの主はまだ眠っているのか、テントは静まったままだ。テントの外にはオフロードバイクのブーツがでんと置いてある。でかいから中に入れられなかったのだろう。夜露で濡れてしまうのに、いいんだろうか。まあ、いいんだろう。

さてさて、そのお散歩キタキツネ君。どうやらターゲットはそのテントに決めたようだ。僕はてっきり残飯を探すものだと思っていた。ここからそのテントまでは少し遠い。間にはいくつもの別のテントもある。まだ早朝だから大声を出すのは、はばかれる。それに特に害はないだろう。そのまま観察を続けた。というか、お茶を飲みながらぼんやり眺めていただけだけど。

と、咄嗟にそのお散歩キタキツネ君が走り出した。口には何か大きなものを咥えている。おおお!それはオフロードバイクのブーツじゃあないか!

あああっ!

キョトンとして、あっけに取られて僕はそのまま彼を見送った。彼はさっさと藪に飛び込み、森の奥に消えていった。ブーツで何するんだろう?ピカピカの金具が欲しかったんだろうか。それともニオイが気に入ったんだろうか?

やつは靴フェチなのかもしれない。

 

                                             ニオイがたまらんでちゅ

 

********************

その後、そのテントの主がどうしたか、残念ながら僕は知らない。初めて見る人だったし会話をする機会も訪れなかった。いつの間にかテントをたたみ出発していた。しかし、知床で片方のブーツを失うのはかなりキツイことだったと思う。予備のスニーカーくらい持っていただろうか?う〜ん、それは微妙だな。それにしても裸足でオフロードバイクに乗るのは、ちょっとキツすぎる。

裸足でギアチェンジは出来ないよ。だぶん。

僕は彼に言いたかった。

「キタキツネ君はさ、どうやら君のニオイが気に入ったみたいだよ。」

でも、おそらく喜んでくれはしないだろう。逆に恨まれるのがオチだ。だって僕は一部始終を見ていたんだから。

でもね、ほんと何もできなかったよ。信じてくれよ〜。

 

足のニオイに自信があるあなた!キタキツネには気をつけよう。


2005年3月4日(金)

続・山で使うコンロ ラジウスのススメ  その2  

前回、ラジウス(灯油燃料山岳ストーブの俗称)がいかに素晴らしいかを熱く語ったわけだけど、それに至るにはいろんな紆余曲折があった。 

高校1年生のとき、山岳部の新入部員だった僕が初めて買ったのは、やっぱりガス。安かったし、軽いからというのが理由だ。当時すでに自転車旅を楽しんでいた僕にとって軽いということは重要だった。おまけに体重は今の7割くらいしかなかった。つまり、15歳の僕は自身の体と自転車、それからフル装備の荷物、全部あわせても今の僕の体重と変わらなかった。(ひぇ〜)

軽さを追求していた、わけではないんだけどね。

現在の僕は、それだけ“成長”してしまった。特に何の不都合もないし、太い腕やゴッツイ足にはそこそこ満足しているけど、上のようなことを思うと、ああ恐ろしい。ようやくここに至って僕はウェイトを落とすことについて真剣に考えざるを得ない。いやホントにそう思う。(ほんとにほんとにそう思う)

高校生のころの自分に申し訳ない。(ごめんなさい・・・。)

なんと初めて買ったガスは20年以上を経た今でもごく普通に使える。錆びがひどいが、構造が単純だから機能には影響がない。ただ現在ではこれに合うガスカートリッジ(携帯ボンベ)をあまり見かけなくなったため、今ではほとんど使っていない。現在主流のイワタニやEPIやカセットガスは使えないから。

高校1年生の秋には小遣いをためて山岳部で使っているのと同じラジウスを買った。理由は燃料がタダだから。自宅の灯油を勝手に抜き取って使うからタダというわけだ。せこい理由だけど、部で使っていたものと同じだから自然と手にしやすかったと思う。初冬の単独登山にはこれを使った。うれしかった。

その後、バイク旅をするようになってからはガソリンコンロに凝った。人並みにオプティマスやホエーブス、コールマンなど、あれこれ買っては試してみた。ガソリンコンロだけで5つくらい買った覚えがある。火力が強く点火が容易で、いざとなればバイクの燃料を抜いて使えるという点が魅力だったが、やはり揮発性の燃料は怖かったし、燃えるときの匂いがクサイ。いかにも体に悪そうだ。強すぎる火力に困ることもあった。それに燃費も悪い。結局、気に入ったものがなくて、それらは人にあげたりいつの間にか失くなっていたりして、今は3つしか残っていない。もちろん、もう使っていない。

ガスもいろいろ使ってみた。これも6〜7種類くらい買って使ってみただろうか。キャンプ場や宿で盗まれたりしたから今、手元には4ツしか残っていないが、これは一番古いものを除いて今でも用途に応じて使っている。もちろん、あくまで予備火力だ。

結局、主力火器として最後に残ったのは最初に買った灯油を使うラジウスだった。扱いは面倒だけど、いちばん使い勝手がいいと僕は思っている。今使っているラジウスは2代目。通算で3台買い換えたのだが、いちばん最近買った(8年前)ものは不良品で、頭にきて日本の輸入代理店に送ったのだが、預かっておくという手紙が1通届いただけでその後、何の音沙汰もない。結局、2代目と初代の部品を組み合わせてそのまま使っている。メーカーが違うのに、ジャストフィットしている。このへんのアバウトさも好きだ。いま、携帯電話の充電器ですらメーカーが違うと使えない。精巧な家電品に限ってメーカーが違うとダメダメよ、ということが多い。みんな間違ってるゼ。俺のラジウスを見習えよな。と、言いたい。(不便な世の中だよ)

初代のラジウス、これは高校1年生の秋に買ったものだが、こいつは大学生のころ岩場から真っ逆さまに落としてしまい、グシャグシャの金属の塊になってしまった。しかし、ヘッド部分だけが何とか使える(多少歪んでいるが)ということで、今の2代目と組み合わせて使っている。そんなことしなくてもいいんだけど、やっぱり思い出がいっぱい詰まっているから、ずっと一緒に使ってやりたいのだ。付き合いの古いモノはやっぱりいいもんだ。

僕のラジウスは今でも小気味のいい噴射音をさせながら、青い、やさしい炎で料理をつくり茶を沸かし、まわりをあたため続けている。

妻との付き合いも、このラジウスとの付き合いも、いつの間にか20年を越えた。古いモノはやっぱりいいもんだ。大切にしたい。


2005年3月3日(木)

雪解け、はじまる

今月に入り昼間の日差しは目に見えて鋭さを増してきた。アスファルトの雪は溶け、行き交う車は互いに水しぶきをかけ合う。みんなドロドロだ。春3月、毎年おなじみの光景。今年も雪解けがはじまった。

もう雪が降っても以前のように粉雪ではない。羽毛のようなパウダースノーも来年までおあずけだ。春は高山にもやってきた。まずは深く積もった雪が“腐る”という現象から山の雪解けは始まるのだ。

3月の山は滑りにくい。雪が腐ってくるから・・・。

僕が書く「きょうの三段山」という近況レポートがある。いまは肝心な報告者本人である僕が入院してしまったせいで更新していないけど、ちゃんと毎週4回のレポート更新の際、この時期は随分と悩んだものだ。

「雪が悪いよ、これをレポートすべきか・・・」

せっかく北海道に遊びに来ようと楽しみにしている方に冷や水を浴びせやしないか、それに、第一そんなことを書いたら集客がダウンしちゃうんじゃないか・・・。そんな理由から、書きづらくなる。

いま同業者のレポを見ていても、そのへんの苦慮がうかがえる。楽しいということをことさら強調している。集客しなきゃいけないから滅多なことは書けないのだ。そのへんの苦しさはよくわかる。(がんばれ!)

そんなとき僕は結局、臭いものには蓋、でもないけど、雪質には触れないようにしてレポートを書いたりしていた。実は。(みんなゴメンね)

今年も春がやってきた。野にも山にも春が訪れ動物たちも動き出す。たまに冬の再来を繰り返しつつ、それでも必ず冬は終わる。

3月に入ると北海道も上天気に恵まれることが多くなってくる。しかし反面、気温と日差しによって凍ったり解けたりしながら腐っていく雪(悪雪)のせいでスキーそのものはあまり楽しくはないけれど、それでも時々すばらしい条件に出会うこともある。神様はイジワルなんですよ。ほんとイジワル。

次にスキーを存分に楽しめるのはGW前後だろう。腐り雪は消えて、ザラメというシャキシャキの雪にかわる。これは素晴らしい雪だ。雪が消えてしまう前の、ほんの一瞬の1、2週間だけだけど、この時期の春スキーはほんとに楽しい。あたたかな太陽の下で半袖で滑り、昼寝も楽しむ。ビール・パーティも楽しい。

それまでは、春を探して野山を歩くクロスカントリースキーのような自然散策に出かけるのが僕は好きだ。あ〜、入院していなかったら、こんな天気がいい日には野山に出かけるんだけどなあ・・・。


2005年3月2日(水)

山で使うコンロ ラジウスのススメ  

男の子は道具に凝る。 小物に凝る。なんというか、そういう生き物らしい。そして、いざキャンプに行こうということになると、「得たり!」と云わんばかりに手持ちのアイテム全開! グツと来るようなハードボイルドな道具の数々で男らしさのアピールをすることになる。まあこのへんは若者もおじさんキャンパーも同じですね。(うんうん)

道具や小物は男の子にとって“らしさアピール”のためには欠かせないアイテムなのだ。世の女性たちには、そのへんのことを理解して温かく見守っていただきたい。(ペコリ)

デビューが遅い人ほど小物には凝る。ふつう誰だってまずは形から入るわけだからそれは自然なこと。キャンプ場なんかに行くとそういう新人さんはひと目でそれとわかる。 つまり新人さんは道具類がカッコイイ。いやホントにカッコイイ。僕はかなり調子のいい人間だから、ニコニコ笑いながら見せてくださ〜いと近寄っていく。ほれぼれするような最新アイテムの数々、カタログでしか見られないモノがそこにあり、しかも実際に使われている。おお〜、ビーパルの世界じゃあないか!妙に関心する。けっこう勉強になるし、 意気投合すると、たまにご馳走してもらえることもある。(ゴッチっす)

しかし、誰しもいつまでも新人ではない。そのうち慣れてくると何が必要で何が無駄なお荷物なのかがわかってくる。最初のうちはカタログ人間であった人も、そのうち生活感がにじみ出てきて野暮ったくなることもあるし、 またある面は洗練されるだろう。そして、あまりご馳走してくれなくなるみたい・・・。(残念〜っ)

ゴアテックスのテントのなかにトイレットペーパーがロールのままゴロゴロ転がっているようになれば、もうその人は新人ではない。そろそろ道具類もいい感じに使い込まれてくるころだ。こうして自然に愛用のモノというものが生まれてくるわけだ。

そして僕にも勿論のこと、“愛用”といっていいモノがいくつかある。

僕は山でのストーブ(コンロ)はもっぱらラジウス(ラジュース)を使っている。灯油ストーブ(コンロ)のことをそう呼ぶのだけど、今ではあまり使う人がいない。重たいし、持ち運ぶたびに分解しなければならない。メンテナンスも点火も、いろいろ面倒なのだ。特に新人さんにはとても薦められる品ではない 。

ラジウス。またはラジュース。もともとは欧米の灯油ストーブのメーカーの名で、かつては山岳ストーブの代名詞だったそうだが、とっくに倒産している。今でも灯油ストーブのことをラジウスと呼ぶ人があるが、それはその名残。今でもオプティマス社や、日本のマナスル社が細々と作り続けているが、市場にはあまり出回らない。真鍮製で組み立て式。ノズルがすぐ詰まるので、マメなメンテナンスが必要。また、灯油を気化させる作業が面倒で点火までは時間もかかる。寒冷地ではさらに面倒。反面、いったん点火すれば火力調整が絶妙で、また事故も少ない。普通の石油ストーブのようにテントのなかで暖房として使いやすい。さらには燃料が普通の灯油ということで世界中で入手が容易、軽油もアルコールも使えるというアバウトさ。おまけに燃費がガソリンコンロの3分の1以下という有難い面をあわせもつ。(おおお〜)

僕がラジウスを使い始めたきっかけは、この世界(登山)に入ったときの最初の環境によるところが大きい。高校に入学してすぐ山岳部に入ったのだ。

その高校はヨット部の強豪校でインターハイの常連だった。瀬戸内育ちの僕は迷わずヨット部の見学にいった。そこでチビで生意気な上級生(といってもわずか1年上なんだけど)が威張っているのを見て気後れして、なんとなく「海やなくても山でもエエかもしれんな」という軽いノリで山岳部を見学に行ったのだ。そしてそのまま、何となく、居ついてしまった。そう考えればあの生意気なチビが僕の運命のカギを握っていたことになる。今でもヨットには未練がある。もしあのときヨット部に入ったら、今ごろ僕は自家用ヨットを瀬戸内海に浮かべているような気がするからだ。今の会社を設立、運営を軌道に乗せるまでに僕はまあまあ一般的な自家用のヨットが買えるくらいの投資をしたのだ。たまにチビを呪いたくもなるが、パウダースノーを蹴散らすときには、これで良かったと思う。「幸せだー!」なんだかよくわからない。

山岳部では火器はラジウスが主流だった。ガスはあくまで予備。僕はいまでもその考え方に変化がない。ガスはあくまで予備火力。燃料消費が激しすぎるしコストが高すぎる。でも軽いから、持っていきやすい。だから予備なのだ。

今の山岳部はきっとガソリンコンロが主流だろう。時代は変わるし 、新しいものはやっぱりいい。指導者にだってラジウスを知らない人もいるだろう。でも、「灯油ならそんな事故は起こらないのに」「灯油なら燃費がいいから凍えることはなかっただろうに」そう思われる遭難もある。燃費がよく故障が少ないラジウスは安全で安心な道具。特に長期の山行になると燃料の重量がバカにならないからラジウスを採用すれば遥かに軽量ということもある。古いけれど優れている。そんな気がする。

あくまで個人的な見解だけど。

ガソリンと違って灯油の焼ける匂いは、なんとなく優しい。山での優しい時間には、これがいい。幼いころ我が家にあった円柱胴長の石油ストーブと同じ匂いがする。優しい気持ちになれる。

それに、あの真鍮製ボディ。使い込めば使い込むほどに、カッコイイんだな。


2005年3月2日(水)

アウトドアには、お茶?珈琲?その2 ファイナルアンサー?

2月28日付の日誌から思わぬ反響がいくつか寄せられた。

「おまえ何をほざきあがる、アウトドアには酒だ〜!」

という力強い意見。いやいや失礼した。その通りだと思いますよ。まったくもって同意同意。オサケはいいもんですね・・・。


2005年3月1日(火)

新潟のパキスタン・カリーふたたび   

病院食ばかり食べているとカレーが食べたくなる。それも、香辛料がしっかり効いたヤツ。できればターバンを巻いたインド人が厨房にいる店がいい。ここ数日は食事のまえや腹が減る夜中になると決まってカレーのことばかり考えてしまうようになった。あ〜カレーよ。おまえはほんとに素晴らしい。いまカレーを食わせてくれたなら、その人にどど〜んと好きなだけ回転寿司を奢っちゃうなオレは。ウニも大トロもどんどん食べちゃっていいよ、だから誰か、今すぐインド人の作るカレーを食わせてくれ!頼む!・・・みたいな感じになる。(わかるかな?)

すでに禁断症状らしきものもあらわれはじめた。口が渇き、香辛料の刺激のことを考えたら夜も眠れない。息も荒くなる(ような気がする)。これは話を面白くしようと思って書いているのではない。腹が減っているとき香辛料の刺激を思い出すのはとっても辛いことなんだ。たとえば女性ならばダイエットをしたことがある人は多いだろう。ダイエット中のいちばん辛いときに、ついうっかりテレビで美味しいデザートばかりを特集する番組を見ちゃったらアナタはどうなる?男性ならば、夏の暑い暑ぅ〜いとき、炎天下で丸々1日激しい労働をしていて、ああ、もうダメ、誰か冷たい水を頂だい。ああ、ほんまもうダメ、本気やねん、なんとかしてくれぃ〜!というとき、目の前にいるヤツがキンキンに冷えたクアーズ(ビールですね)を飲み始めたらどうする?今の僕の状況というのはそういう断末魔の真っ最中に等しい。いや、まことに狂おしいね、カレーは。

そんな断末魔に狂う僕が思い起こすカレーはナニかというと、思い起こすのは帰省したときには必ず訪れる神戸の老舗インド料理の店ゲイロードでもなく富良野にある有名な唯我独尊のカレーでもない。脳裏に到来して離れないのは行ったこともない店だ。実は名前すら知らない。通り過ぎただけだったから。

その店は新潟にある。

 

《ガイド日誌 日本縦断MTBの旅「広いぞ新潟」編 から抜粋》 前後略

相変わらず港湾施設が続いている。新潟空港に近い一角に差し掛かったとき、ちょうど正午になった。このあたりの飲食店は外国人が経営しているのか、ロシアっぽかったりインド・パキスタンっぽい店が目立つ。おまけに店の前には 一見怖そうな外国人がたむろしていて、ちょっと入りにくい雰囲気がある。それでも、パキスタン風カリーをぜひ食べてみたいと思った。香りたつ香辛料のカリーを想像したらよけいに腹が減る。しかし、だ。「これ!」と思う店はなかなか 見つからない。その主な原因は店の前に群れている怖そうな人たちだ。そうこうしているときに目の前の信号が赤に変わりそうになった。急いでスピードをあげて 三叉路を駆けぬけた。そのとき、いい感じのカフェ風の店が眼に飛び込んできた。「あっ!」と思った瞬間だった。やっぱり外国人がたむろしていたが「治安が悪そう」という雰囲気があまり感じられない。しかし、だ。そういうときに限って自転車のスピードがノッているのだ。ああああああ〜、と迷っているうちに通りすぎてしまった。スピードがノッているときというのは立ち止まったり、 引き返すことにはちょっとした勇気と思い切りが必要だ。まあいい、他にもあるだろう、そう言い聞かせつつも、 気になって仕方がない。そうこうしているうちにどんどん離れていく。いつまでも後ろ髪が引かれる。ああ、愛しいパキスタン風カリーよ、お前に会うために今 すぐにでも引き返そうか。しかし思うばかりで例のパキスタンカリー店は実際にはどんどん離れていく。おまけに、行けども行けどもその先にはとうとう「アジアンチック」な店は見当たらなかった。結局、コンビニ弁当を食うはめになってしまったのだ。大変な後悔。また新潟に行く機会があったなら、今度はぜひ行きたい店。名前はわからないが、忘れないように地図に詳しい書き込みをいれた。夢はパキスタンカリーだ。待ってろよ、新潟。

 

あの自分歴史的な大失態から早いもので4ヶ月近い月日が流れたが、僕は決してパキスタンカリーを諦めたわけではない。僕の性格はかなり粘ちっこくて、一度決めたらちょっとやそこらで諦めたり放棄したりはしないのだ。たとえ時間がかかっても、お金がかかっても、目標に向かって少しずつ前進する。かなり執念深い。よく言えば、有言実行型。努力家。夢想家。まあ、要するに頑固なわけだけど。

パキスタンカリーにも僕の、何がなんでもオレは夢を諦めないゼの性格が発揮される。フツフツと音をたてて沸いてくるこの情熱。あなたにも聞こえますか?え?ちょっと怖いって?(そりゃそうだろう)

それにしてもあの失態は痛かった。でもその悔しさの分だけ、「また絶対に行くぞ!」という思いは極めて強い。そこにきて今回の断末魔だ。堪え切れなくなってインターネットで調べてみた。そして・・・。

あった〜!ついに見つけた!

その店は「インド・パキスタン料理ナイル」というらしい。地図上の位置もまさに僕の地図に書き込まれた悔しさの記録と同じ。記憶も同じだ。ケバケバしいピンクの壁が妙にアジアの熱っぽい雑踏っぽくてインパクトがあったが、写真をみた。これも同じだ。素晴らしい!

それにしても、インド・パキスタンでなぜ「ナイル」なのか。当然の疑問がうかぶ。不安になる。地方都市の駅裏にある人々に忘れられた喫茶店「パリス」でバサバサのスパゲッティナポリタンを食うような、または一昔前のB級映画に出てくる日本の町並みでチャイナハットのおっさんがカンフーしているような、もうドサクサに紛れて何でもアリという悲惨な目に遭うのではないか。新潟まで、このちっぽけな夢を実現しに行く価値は果たしてあるんだろうか。そんな一抹の不安に襲われる。

だって兄さん、「ナイル」だぜ。ロンドンに「富士山」という名のタイ・ベトナム料理の店があったら変だろう。着物女性がトムヤンクンを運んできたら・・・。同じようなものだ。

それにしても検索したら出てくる出てくる・・・。地元ではけっこう有名らしいことがわかった。シェフが生粋のインド人で政治的な理由で印パ紛争(インドからのパキスタン独立に端を発する)に関ったらしいということもわかった。これでターバン巻いたインド人が厨房に立っているという重要条件はクリアできたわけだ。さらに、ああ、なんとIT社会は便利なんだろう・・・。「ナイル」とは、そのターバン氏の名前そのもので、エジプトの「ナイル川」とは関係がないことが判明、僕を安堵させた。な〜んだ。つまり、「料理屋後藤」とか「ちゃんこ鍋の恵那桜」みたいなものなのだ。「ナイルさん」なんだ。素朴じゃあないか。安心した。

得られた情報を食い入るように見つめた。自転車旅行の思い出がオーバーラップする。新潟はいまごろ雪の町だろうか。きっとそうだろう。港湾にたくさんいたアジア系の港湾労働者たちは元気だろうか。寒さに参っていないだろうか。「ナイル」に集まって日本の冬の寒さについて一杯やりながら悪態のひとつもついているだろうか。やっぱり冬はロシア人が幅を利かせるんだろうな。こうしてロシア・マフィアはきっと冬の間に勢力を広げるんだ。な〜んて、いろんな想像が駆けめぐり、頭のなかはいっぱいだ。そんな空想もけっこう楽しい。

それにしてもカレーが食べたい。窓の外の旭川の夜景を眺めながら(ここは高台なので眺めがいい)、なんだか吼えてしまいそうだ。

「てめえ、ちくしょう、まってろよ〜!!!」

誰に言っているのかは、僕にもわからないんだけどネ。

 

〈Link〉

インド・パキスタン料理 ナイル 

ガイド日誌 日本縦断チャリの旅


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