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2004年4月29日(木)・30日( 金)

 

カヌーとの別れ

  ガイドの山小屋では3年前までカヌーやラフティングを実施していました。しかし今は実施していません。「なぜか」とよく問われるのですが、別に儲からなかったわけじゃないんですよ。いや、実際に年商は今の倍以上ありましたっけ。

 しかしながら、カヌーは僕一人では出来ないんです。どうしてもスタッフが必要なのです。一時期ガイドの山小屋には7人ものスタッフがいたことがあります。しかしながら、言うまでもなくカヌー・ラフティングはお客の命を預かる商売です。ひとつ間違えば簡単に重大な事故に繋がります。実際に全国で年間に何件もの死亡事故が発生しています。つまり、スタッフは必要なのだけど、しかし生半可なアルバイト仕事では務まらないのです。 またアルバイトをプロガイドとして養成するのは決して簡単なことではありません。ある一定の安全基準まで達するガイドを養成するのは1ヶ月2ヶ月では不可能なことです。それだけではありません。様々なリスクや人件費その他を考慮すると、最低でもラフティングで一人5000円、カヌーで一人8000円の参加費を頂かなければ安全でかつ楽しいアウトドアスポーツとして提供するのは困難です。完全な対策なしにカヌーやラフティングを行なう。これほど危険なものはありません。

 何年か前、本州で同業を経営する友人が事故を起こしてしまいました。なぜあの人が??彼はこの世界ではパイオニア的な存在でした。しかし、いろいろ聞くうちにその原因がおぼろげに見えてきました。僕の分析は当時、世間一般で騒がれた原因究明内容とは明らかに違うと思います。プロガイドの見た原因究明のひとつだと解釈していただけましたら幸いです。

 あのころ一般世間では天候判断がどうだとか装備があーだこうだと皆が評論家よろしく勝手な憶測を並べていましたが、僕が考えるにあの天候急変はただただ不幸としか言いようが なかったと思います。あの程度の判断ミスは実は誰でも起こす。もしかしたらミスとは言えないかもしれない。ただ、それに別の不幸な要素がどれくらい加わってくる のかで結果は大きく違ってくるのです。したがって天候急変の「そのあと」の対応が重要になってくるのです。

 そのなかでも僕が最も注目したのは、そのアウトドアプログラムの参加費。参加費がものすごく安い。ボランティア活動並みの金額です。友人はちょっと度が過ぎるくらい人がいい穏やかな人物で、お客さえ喜べばそれで幸せなんだという、そんなところがある人でした。そんな彼に親しみをもつお客さんが何と多かったことでしょう。そんな彼は皆に好かれていました。ただ、その地域の同業者たちは内心、大変な嫉妬を抱いていたかもしれません。事故後の一部の同業者たちの対応を見ているとその一端をうかがい知ることができます。 無理もないことなのかもしれませんが・・・。

 みんなに親しまれていた彼。その日も彼のファンであるお客さんがやってきました。しかし、その日の彼は不幸にも事故を起こしてしまったのです。事故要素はいくつか考えられるのですが、安全確保のために必要な装備が不十分だったという点が事故原因の最も大きな要素と考えられました。彼は装備を所有していなかった ため、参加者に装備を貸与することができなかった。つまり、そもそも彼は高額な装備を買うことができなかったと思われるのです。

 つまり、彼がもらっていた参加費では十分な安全装備を揃えることができず、また傷害保険も不十分だったことでしょう。さらに自分の労賃も出ないのにバックアップのスタッフを準備することはもちろんできなかった。お客さんはそんな「お得」なツアープログラムを喜んだだろうけど、結果として不幸を招くことになった。つまり、この事故が与えてくれる教訓のひとつに、「お金がなければ安全は買えない」という現実があるのです。彼は自分の労賃も考えず、ただお客さんに喜んでもらいたいと思い、儲けを土返ししたために事故を起こしてしまいました。みんな に喜んでもらいたい、出来るだけ安くしてあげたい。自分は儲からなくてもいい。そんな人のいい彼の心中を思うといたたまれなくなります。

 もし、彼がちゃんとした「商売人」で、装備を完璧に揃え、十分に訓練された他のスタッフによるレスキューバックアップを準備し、対価として実際の5倍以上の金額を受け取っていたなら、もちろんその事故は発生していなかったと断言できます。これが現実なのです。

 人の命を預かるアウトドアスポーツの仕事で、自分の仕事を安売りすることは非常に危険だと思い知らされる事件でした。その結果、僕は自分の仕事内容を考え直さざるを得ませんでした。

 僕がカヌーツアーを始めたときは、ちょうどカヌーやラフティングのブームの兆しが見え始めたくらいの創成期といえる時期でした。 NZやオーストラリアで始まったアウトドアのオプショナルツアーに初めて僕が出会い、現在の商売のヒントを得たのは1992年のことで、国内には同種の商業ツアーはまだ少なく、安全基準も存在しない時期でした。 96年にガイドの山小屋の母体となる会社を設立し、その後、僕にカヌーを教えてくれた仲間たちと一緒に試行錯誤をしながら取り組んだものです。正直、危険な事故も発生しました。ある穏やかな日、僕らが知らない遠い山脈で豪雨があり、 そのはるか下流の僕らの川では思いもしなかった鉄砲水が発生して3人が乗り込んだカナディアンカヌーが転覆しました。泥や岩や倒木が入り混じった濁流に参加者の女性が飲み込まれて見えなくなったときは、最悪の事態を覚悟したものです。あのときレスキューバックアップが同行していなければ、間違いなく僕の会社が北海道第1号の死亡事故発生カンパニーになっていたことでしょう。

 また、スタッフの一人がどうしてもガイドの安全基準に達せず、また技術的にも戦力にならず、それどころか困ったことに毎日のように転覆事故を起こして返金や賠償、弁償などの損害ばかりを出すために長期間にわたって他のスタッフの給料はおろか会社経営の資金繰りにも行き詰まり、ついには僕の個人的な貯金も底をついて倒産を覚悟したこともありました。あれこれ、ほんとうに、いろんなことがありました。

 ずいぶんお金と労力をかけてノウハウを積み重ねてきたのだけど、僕はもうこの先カヌーやラフティングを商売としてやっていくことには限界を感じています。今でも富良野やニセコではラフティングを楽しむ人たちの嬌声が聞かれます。カヌーやラフティングは、ほんとうに楽しい。ガイドしていても、ほんとうに楽しいのです。しかし、しかし・・・。

 一方で乱立気味のカンパニーの間では値引き合戦も始まり、団体旅行の受注をめぐり会社存続を賭けた生き残り合戦の様相を呈しています。世知辛い俗世からいくぶん距離をおき、みんなに楽しんでもらうことを生業としたい、自分が楽しいと思えることを仕事にしたいと思って始めたこの仕事ですが、なかなかうまくはいかないものです。

 プライベート用のカヌーと自分の装備だけを残して、カヌーもラフトも他の装備もそれら一切すべての再就職先がついに決まりました。連休明けにも装備一式が新しい就職先に貰われていきます。僕はホッとしたような、虚しいような複雑な気分です。これらを片付けて箱詰めしたり整理しながら、例えばコツコツと頑張って守ってきた自分の小さな町工場が売られていくときは、もしかしたらこんな気分になるのかなあ。ふと、そんな気がしました。カヌーを手放すのは経済的な理由ではないから、それと比べるのは大変な失礼かもしれません。しかし、自分にとって、ある時代を築いてきた礎を手放すのは本当に惜しい。毎日毎日早朝から深夜まで働いて体まで壊した、おまけに貯金まで失った、でも楽しいこともたくさんあった。おかげで現在のガイドの山小屋の基盤ができた。そんな あれこれを思い出すと、ふと、売るのをやめてしまおうかと思ってしまったりするのです。

 また、川で仕事をしていたころは、どんなに気をつけていても緊急のレスキュー活動をする機会がありました。僕らの川はラフティングにはやや物足りないもののカナディアンカヌーで川下りをするには障害物や急流が多すぎて、それだけにスリルがあり、それは同時に難易度の高い川といえました。毎日が緊張に包まれていて、実際、転覆や転落は日常ともいえました。年に1度くらいは「ヒヤリ」とするレスキューも発生しました。水中の障害物に引っかかったまま浮いてこない女性の救助。濁流に変わった流れのなか中州に取り残された人の救助。川に落ちてしまった泳げない人。また川に落ちそうになったお母さんが何かに掴まろうと咄嗟に我が子をつかんでしまい、結局幼児を道連れにラフトボートから落ちてしまったり。このとき僕はとっさに川に飛び込んだのですが、振り返るとガイドを失ったラフトボートがコントロールを失って急流に流されていて(もちろんお客が乗っている)慌てたものです。いずれのレスキューも秒単位の時間との闘いでした。水没した女性の救助など、あと1分遅れていたら死なせていたかもしれません。瀬戸内育ちの僕は幼いころから海に潜って遊んでいたので、その経験が役に立ったのかもしれません。「経験」というのはどこでどんな形で役に立つか、わからないものですね。

 またカヌーでは僕自身も100回に1回くらいの確率で舟を転覆させました。まだ現場に出たばかりのスタッフなどはよく舟をひっくり返していたものです。そのたびにお客さんが流されました。今でこそ笑い話になりますが、それにしても今までよく大事を起こさずに来られたものだと思っています。それらの、実際に救助の現場をくぐり抜けてきたレスキュー搬出の経験は山岳救助におけるノウハウにも反映され今に生きています。もちろん望んでレスキュー活動をしていたわけではありませんが。

 マスターガイドを退き、最後のレスキュー活動をしてからもすでに3年がたちます。緊張感もすっかり薄れ、すでに勘が鈍ってきたことは否定できません。さいわい、今のところ山では大きな事故が起こっていません。そんなこともあって、「本当に川をやめて大丈夫なのか?」といまになって自問してしまうのです。いざというときに体は動くのか?いずれ出会うであろう修羅場で自分は何ができるのか。これらは、これからの大きな課題となるでしょう。

 

 

2004年4月25日(日)

 

その後のホタテたち

 

 七輪で焼く。じっくり焼く。

 これがもっとも旨い食べ方。

昨夜8時ごろスーさん宅にて

 

2004年4月23日(金)

 

ホタテの運動会

  僕は買い物が大好きです。とはいっても服や時計や車といった物欲ではなくて食欲を満たす買い物のことです。「あ、これ旨そうだな」と思うと同じくらい「これを食べさせたら喜ぶだろな」などと想像しながら、またおいしい料理方法を考えながら食材を手にとって思案するのが好きです。だから、スーパーで買い物をするのはとても好きです。

 きょうスーパーで飛びっきりの目玉を見つけました。明日、友人宅でちょっとした集まりがあるので、僕はそこに持参する食材を探していたのです。最初はスペアリブを塊で購入して香辛料の効いたタレに一晩漬け込んで持って行き、みんなの前で焼きながら切り分ける、なんてことを考えていたんだけど、いや待てよ。何しろオトコたちの集まりなんだから酒と肉は持て余すくらい集まるのではないか。それなら別のものを・・・、などと、店のなかをウロウロしながら僕の頭のなかは楽しい思案でいっぱいでした。

 そんなとき視界に飛び込んできたのは殻のついた生きたホタテ。おおお!おれ帆立て大好き!どれどれどれ?と販売ワゴンを覗き込みます。

 そのホタテたちはトロ箱に山盛りになっていました。店先に並べられてもなおいっそう元気に塩水を噴き出しているヤツもたくさんいます。まさに北海道サロマ湖産地直送、たったいま届いたゼ(たぶん)といったところ。そんなホタテたちを眺めながら、僕は想像しはじめました。

 真っ赤におこった炭火にはいい感じに焼きが入った金網が乗っている。そして、そのホタテは今まさに殻付きのまま炭火で炒られようとしている・・・。網にのせられて約5分後、蓋がゆっくりと持ち上がってくる。火のうえに少量の汁がたれてジュッという鋭い音をたてる。その音につられるようにみんなが振り返る。そして、しみじみと焼き加減を凝視している。酒と肉で盛り上がった宴のさなか、やがて静かに、しかし力強く広がる香ばしい香り。殻が焼けて少し割れるときのチリッチリッという音。ホタテの肉汁が沸騰する音。そして誰かがホタテの肉汁がこぼれないよう、微妙に火加減など気にしながら殻をひっくり返してみたりする。ジュゥ〜。タイミングを見計らってほかの誰かが開いた口に少量のバターと醤油をたら〜り垂らしてみる。これまたジュワ〜!勢いよく立ち昇る醤油がこげる香ばしい蒸気・・・う〜ん、たまんない!たまんないっすよ!「もう食べていいっすかね?」誰かの声。あちちち!マジあちぃよ〜。あちらでは嬉しそうな悲鳴もあがっていたりする。

 ええもちろん。即決でした。ホタテはトロ箱で買っちゃいました。トロ箱をよいしょと持ち上げて、魚屋のような気分でレジに並びます。うんうん、なんだか気持ちのいいものだナ。なんて。しかも、全然高くないんです。そうですね・・・、ファミレスで夕食1人前と変わらないくらいの値段です。浜値とかわらないくらい。なんだかうれしいなあ。

 いま、元気な帆立の詰まったトロ箱には塩水が湛えられています。一晩かけて砂抜きをしているところ。浅利と同じ要領ですね。瀬戸内の小さな城下町で育った僕にとって海は常に身近な存在でした。春から初夏にかけて、食卓にはアサリの味噌汁がよく並んだものです。採れたばかりの浅利は砂抜きをしなくてはいけません。こんなとき、亡くなった曾祖母は貝たちの様子を見ながらさらに塩をパラパラと撒いていたっけな。そうすると間もなく、沈黙していたアサリたちが勢いよく砂を吹き出し始めるんです。なんだか魔法みたいだな、なんて思って見ていた子供時代を思い出しました。

 トロ箱を時折覗き込むと、ひいばあちゃんにはかなわないけれど、ホタテたちはしっかり砂を吹いていました。さらに貝から勢いよく塩水を噴射してトロ箱のなかで運動会をしているやつもいます。うふふふ。なんだか明日が楽しみだなあ。

 

2004年4月22日(木)

 

にぎやかな日

  平日だというのになんだか訪問者や電話の多い1日でした。昨日までの雨もあがったので冬の備品を片付けることを思いつき、午前中からガタゴトとスキーやスノーシューを片付けたり、冬の間に風雪が散らかしていった枯れ枝を集めて燃やしたり、倉庫の奥から貸し自転車を引っ張り出したりと、それでもあれこれ半日で終わるだろうと思ったら、これが結構忙しいものでした。僕はいったん重い腰をあげると、とことんやらないと気が済まないほうです。あれこれあれこれ、くるくる動き回り、せっせと働きました。もともと体を動かすのは好きなので、こういう仕事はけっこう楽しいのです。隣の民宿の御主人も朝から外で働いています。せっせと薪を作っている様子で、ビィィィーンというチェンソーの機械音がいかにも「カントリーライフ」ってカンジです。隣の御夫婦はカントリーライフの達人で素朴なのにカッコイイのです。僕もチェーンソーに促されるようになんだかソノ気になって大きな丸太を転がしたりしてみます。でも、湿った丸太は重たくて腰が痛いだけでしたが。

 それにしても、昨日までとは打って変わって何故かきょうは訪問者が多いのです。石油やさん、食品卸問屋さん、くるま屋さん、旅行代理店からの至急の打ち合わせの電話やファックス、保険やさん、娘のともだち、奥さんのともだち、僕のともだち。次から次とやってきます。きのうまで誰も来なかったのに。なぜだろう?

 もしかしたら、活発に動きはじめると何かしら周囲に伝わるものがあるんでしょうかね?みんなが自分に注目しているんではないだろうか?と不思議に思うことって、皆さんにもありませんか?

 それにしても、缶いっぱいのメリーのチョコレート。娘と娘のともだちが去ったあと蓋をあけて覗いてみると、あれ?あっという間にカラになってる!いやあ・・・女の子の食欲って、やっぱりすごいです。。。

 

2004年4月19日(月)

 

北海道限定の

 週末に遊びにきたBCテレマークスキーの先輩さんにうれしい差し入れをいただきました。「自分はいつも挫折してしまうんだけど山小屋サンならきっと大丈夫だと思って」と僕のオナカのあたりをチラチラ見つつ笑いながらおっしゃるさん。どうやら何かに興味津々のようなので、早速きょう 試してみることにしました。

厚みも2倍

 高カロリー食品愛好家の間ではあまりに有名な北海道限定「マルちゃん焼きソバ弁当 中華スープ付」という商品には 定番の普通サイズと大盛りがありますが、こいつはその姉妹品で容器がやたら大きく、名前はなんと「でっかい(そのまんまやんか)。わかりやすいところも北海道的です。さらに、分厚いカップを開けてみると、おお、これはっ!なんということでしょう! 麺は2段重ねになっており、まるで重箱のようではないですか!なんという贅沢でしょうか!

 作り方はカンタンです。焼きソバ弁当と同じです。 麺を戻したあとの濁った残り湯であの味わい深い中華スープを作るのも同じ。味も同じです。そして勿論カロリーも2倍。食べごたえは十分です。ええ、もちろんあっという間に完食しました。僕にはちょうどいい量でした。

 たった1食であっという間に1187キロカロリー摂取。いやいやいや・・・。皆さんもいかがですか?北海道はでっかいどー、って実感できること間違いありません。

 

2004年4月16日(金)

 

福寿草

 きょう、ガイドの山小屋の敷地内(庭というより原野です)に福寿草が咲いているのを見つけました。この土地はもともと湿地で、ヤチダモやオニグルミなどの湿地を好む樹木の森でした。今でも春になると雪解けによって大きな池がお目見えして周辺にはミズバショウやザゼンソウがごく普通に見られます。アマドコロなどのラン科の花や エンレイソウやエンゴサクなどの野の花、ウバユリ、またおいしい山菜として人気のギョウジャニンニクやウド、また猛毒を持つというトリカブトまでごく普通に群生しています。しかし、この地に家を建てる前には確かに見かけていた福寿草だけは森をひらき敷地の一部を造成してからというもの見られなくなっていたのです。

 数年ぶりに戻ってきた福寿草を見つけて、今年はなんとなく縁起がいいなと思ったのでした。

 

2004年4月15日(木)

 

空からみた山々

  祖母の介護のため3週間近く留守にしていました。四国高知県の施設にひとりで入居している祖母には年2回の僕の訪問が涙がでるほど嬉しいらしく、その喜ぶ顔を見ると、つい「また来るからね」と次の訪問を約束してしまいます。でも高知はあまりに遠い・・・。それだけではありません。花粉症の僕にとって春の帰省はひどく憂鬱なものです。杉ヒノキ花粉の悪さで目はシバシバ鼻はグスグス、ハァ、ハァ、ハクショ〜ン大魔王。飛行機が伊丹空港を飛び立ったときには正直なところホッとしてしまいました。これで開放されるぞと。

 日本列島が全国的に良い天気に恵まれた今日、日本アルプスの山々、富岳百景そのままの姿をした富士山、八幡平、八甲田の山々など、普段は話でしか聞くことのない山々が一望のもとに見渡せるものだから僕は風景にすっかり夢中になってしまい、まるで子供のように2時間ずっと小さな窓に釘づけでした。

 津軽海峡を越えると北海道。苫小牧、千歳空港上空を越えるとあっという間に富良野盆地が見えてきます。裏側から見る芦別岳はまるでギニア高地の境目のようで(見たことはないけど)山脈が一気に芦別岳から富良野へと切れ込んでいるように見えます。正面には存在感十分の富良野岳。そして十勝岳、オプタテシケ、大雪の山々へと続く真っ白い連なり。豊かで滑らかな白に覆われた山々を眺めて、雪解けはまだまだ先のことのようだなと勝手な憶測で納得したりします。。。

 街にいると、ほんの少し前まで冬山の真っ只中で仕事をしていた自分がずいぶん遠くに感じられることがありました。でも、飛行機の2時間、北へ北へと続く日本列島の山々の眺めに見入っていたおかげで気持ちの切り替えができたような気がしました。

 それにしても、花粉症のない北海道って。やっぱり、好きだー!

 


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